<外丸久美子さま インタビュー>

<外丸久美子さま インタビュー>
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頼子
(幼い頃) 東京・渋谷で生まれ(日赤) お父様 群馬出身 お母様 東京出身 一人っ子 お父様 料理人 お屋敷に家族で住み込み 久美子さんは応接室で一人放って置かれた お母様 恵比寿の親戚の所にいた 専業主婦だったけれども お父様の料理の接客を嫌いや手伝っていた 板前のお父様は腕も良くないけれども、プライドが人一倍高い だから嫌われて 嫌な仕事ばかり回される 常にストレスがあって お酒を飲んでいた (小学校) 小一の最初とか 小6の終わりとか 中3の終わりとか 変なタイミングで転校させられた 電車で痴漢にもあって(転校しないために) 「男はろくなことがしない、いじめと性的な悪戯しかしない」 のイメージが入った (小4・5の頃) その後辞めて 自分の店を出す 飲み屋 母は飲めないし、飲む人も嫌い 父はお見合いの時にはお酒もタバコもやらないと言ってた でも本当はどちらもやるという 父方の祖母に店の資金を無心で頼む(父が) 母も半分 父の店と祖母の店の中間地点のアパートに母と住んでいた 母がお店の手伝いに行く時に、久美子さんをひとりにはできないと、お店に連れて行った 久美子さんは父が寝泊まりしていた1畳の部屋に一人で放って置かれた 手羽先を与えられてた 母は洋服とか好きで買いたかったので、パートにも出てた 母は器用で社交性があった 父と正反対だった 母の口癖が「専業主婦のはずだったのに、話が違う、なんで私が・・」だった 10万円均一しか持ってこない、と母は嫌いや働いた 母は小学校までだったけど勉強も出来た 運動も出来た 器用だった 常にトップ 人から賞賛されるのが当たり前の人 だから久美子さんが常に80点以上取ってても 母は褒めなかった 母は父が甲斐性なし、ダメ人間、という雰囲気と言葉をちらほら出していた 父は 母から承認されて無かった、母親の愛が欲しかった (小5の時) 店の常連さんの優しい感じで、母親も嫌いじゃ無かった その常連さんのアパートが家より近かったので、母親と久美子さんが行って、母が居なくなって、B体験をした 最初は気持ち良かったけど、だんだん気持ち悪くなった その後3人で食事に行ったけど、食べられなかった そしたら母がお粥を頼んだ それを聞いた男の人が「良くわかってるね」母が「そりゃ母親だもの」 ここで久美子さんは母に殺意を覚えた その男がチッチとサリーの本を買ってご機嫌取りをしてた そこで性のブロックがついた ボーイズラブの漫画にはまった 純粋な恋愛の漫画にブロックがあった (小5) 父が離婚に応じない 離婚するなら久美子さんを置いていけと言われた それは嫌だった 母が布団の中で首絞めるような真似をしてた 離婚に応じてくれないのと 何より父の怒鳴り声が耐えられず寝られなかった (小5) 塾の男の子たちに、スカートめくられたり、自転車乗っていると胸を触られたりした 一緒に通ってた女の子とたちが助けてくれた 母親に行ったら助けてくれた (小5) 両親の離婚問題がピークで 暗い気分になって 手に蕁麻疹が出ていた 教室でもしょっちゅう吐いてた ゲロ吐き女と呼ばれていた 転校する時も針の筵で 「なんでこんなゲロ吐き女のために」 という冷たい空気だった (小6で転校) 身体検査で、胸がすごく大きかったので、クラスの男の子たちが触ろうとした 他の女の子がノーブラだからだよって言ってくれた 母親に言ったけれども、「母親のせいだ」と思った (中学) 性的にイタズラされたのに、男性にモテてると思い、一番の美女にも負けないと思ってた 男性に対して見下してた 5番以内に入っていたので、ブスなのにお高く止まってると思われて ノートに落書きされたりしていた つねったり でも久美子さんが泣かないので 「鼻を殴れば泣くぞ」とか言われて 幼稚園の時も 追っかけマサわれた バドミントン部で 先生が鬼だった (中学) 勉強が出来たから 委員長とか良く頼まれた 転校生だから馴染めなかった 女の子からもイジメの対象 わざといじめることで反撃することを待ってた 初めてやり返した(何かいうことを引き出してくれた) 久美子さんがあまりにも言いたいことを飲み込んでいたので その1番いじめてた子が謝りにきた 良(社会人25歳〜29歳) 結婚してなかった女子グループでスキーに行ったのをキッカケに、スキーにハマった 一人でスキーに行くほど 日帰りで 沖縄旅行とか言ってた (社会人) OLが最初 貿易事務 セクハラ親父 胸が大きから 体目当て 会社から帰ってきたら 台所がめちゃくちゃで 母親が失禁してて倒れていた 救急車を呼んで治療したけれども 脳外科になったけどなんともなく 母が鬱になった 眠れなかった 近所で話していた人が居なくなって 寂しくなったのが原因 鬱から認知症のようになった 誰にも相談できなかったので一人だった 母の介護の前兆 精神錯乱 一人ではどうしようも無くなったので 役所に相談して施設を探してくれた デーサービスに通うことに 認知が入ってた その施設に辿り着くまでがとても辛かった (38才の時) 父が肺がんで亡くなる 常に酒を飲んでた 病院が嫌い→お酒が飲めないから 肺がんの末期だったのに父親はタバコ吸ってた 頑なに病院に行かなかった 最後はタバコも渡して、父が自ら病院に行き、大病院の検査中に倒れた 余命1ヶ月を宣告された 母親は毎日病院に行ってた 危篤状態のときも タクシーで帰った 葬式で涙も出なかった 父親に「愛していないでしょ?」と言っても 「目に入れても痛くない」と言ってた (30歳前後) 換気扇で?火傷する (47歳) セクハラ上司の奥様が乗り込んできて パニック障害 広いところが恐怖 (49歳) 東日本大震災でそれどころじゃなくなった その奥さんがお米を持ってきてくれたから和らいだ (51〜3歳ぐらい) (投資話に乗って)借金を背負った 精神安定剤は前の会社から飲んでいて 眠れなくなり 母親の死にたいといていて うつ病がひどくなり 子宮筋腫も大きくなり子宮全摘手術することになった 卵巣も片方残ると思っていたのに 全て取られた 5人の医師の判断で両方取った 心療内科に通ったけど何も解決せず 近所の薬の量が減ったという感想のある 病院に行ってみる 瞑想 薬が減った 睡眠薬だけになった 精神安定剤は要らなくなった (56歳) 母親が肺がんで亡くなる 看取った時も一人 毎日のようにお見舞いに行ってた 共依存の関係ではあったけど情はあった 最後には逃げたくなった 危篤状態の時にも逃げてた ずっと病院に詰めていることが出来たけれども それを避けてた 母親の時の 葬式で泣けなかった 母の弟の遺産が入ってきた 講座ジプシー <この経験を生かして> 闇を光に変えるカウンセラーとして活躍する


